ももの日記

ACから一筋の光

ACと克服

今日は曇天で気温も低く、なんだか1日中眠い。

 

ブログを始めたきっかけは自分の経験が、誰かの力になればいいと思ったから。

 

でも、その意気込みはあればあるほどプレッシャーになっていくことも自覚していました。

 

簡単に書けて尚且つ誰かの力になることは果たして両立できるのか。。

ブログ初心者なので、未だに書くことに慣れません。

自分の言葉が客観的にどう捉えられているかもわからない状態。。

 

今日は肩肘張らず、気ままに書こうと思います。

 

生きづらいって何だろう。

これは私がこれまで経験済みのことで。

言葉にするのは何だかまだ勿体ないような、感じたことと私が出来る表現が一致していないな。。。

 

では、その逆(生きづらくない)って何だろう。

 

そういう人はそもそもこういうことと向き合わないんだろうなあ。

 

例えば、毒親育ちで自分の感情の波を起こすトリガーになる親の存在。

 

この存在に一喜一憂しないというか、揺さぶられないこと?

平静のときに、何かが起こっても動じない心?

 

どんな人にも嫌なことは起こるだろうけど、時間の経過とともに「まあいいや」と思える心は間違いなく、「生きやすい」だろうな。

 

人目を気にしたり、顔色伺ったり、被害妄想したり、

ドキドキ、ソワソワ、ザワザワ、、、

自分に自信がない、自分のことが嫌い、孤独感、不安感、不満感、義務感、劣等感、、

 

もちろん全部私が経験した感情です。

中でも、私の中心は劣等感でした、、。これがめちゃくちゃきつかった。

(幼少期で育まれて行く人間の頭の中って、

神経伝達物質的なのって、いったいどうなっているんでしょうね。。)

 

同じような時間を送っているように見えて、ACとそうでない人達って、人生の中身が全く違うんですよね。

ACはほんとうに形骸化している。。

本心からの選択ではなく、他人軸で異常な緊張感から負わされたチョイスになっていくので、その経験の渦中は雪だるま式にマイナス感情が大きくなっていくのですよね。

病気が病気を呼ぶし。。。

 

ACの捉え方は自分を追い込ませ、世界の捉え方の根っこをこれでもかと苦難と憎悪にさせますよね。

 

私が考える生きやすいって、「人との繋がりを信じられている人」だと感じています。

 

― 人は私を受け入れている

 

この感じ方になった時、私はようやく正常な世界の循環の内側に居られていると思えました。

別にそう捉えられるように訓練したわけでもないし、ノートに自分の本音を書き連ねたりしたわけではない。

いわゆるACの克服法を片っ端から行ったわけではありません。

 

精神科の薬でこの感覚を取り戻すことが出来ました。

 

生きやすいって、人を信じられることなのだなと思うようになりました。

こんなこと言っても許してくれるだろう、という信頼感と安心感。

この変化、全くドラマチックではなく、これまでの昨日と地続き。

ただこれまで慣れ親しんだACの感覚はなんだったんだろう、と思えるような、

苦労が嘘のように感じるような、、そういう類の感覚です。

 

この感覚が取りもどせた今、私はやっと1人の女性として立てた気がします。

好きだと思っていたもの、こうじゃなきゃいけないと感じていたものに違和感を感じて、眠っていた実は研ぎ澄まされていた感覚が私の本心を拾い上げてくれるようになりました。

やっと心の声が聞こえるようになった。

「本当の本当は違う気がする」という違和感があったのにそれを無視して。

愛されてないと感じて依存して、自分の本当の気持ちで生きることができなかったからいつも喉に引っかかりを感じていました。つらかったなあ。

 

本当に、できないんだよ。

自分の本心で生きることが。

 

人に安心感を覚えてから、明日が怖くなくなりました。

これまで一段高いところに居た他人が、自分と同じ高さにいると感じてから「困ったら助けを求める力が私にもある」という自己効力感のようなものも同時に取り戻せるようになったから。

 

芋づる式のように、以前よりずっと生きやすさを達成するための様々な術、感覚が身につきました。

 

私が言えることは、自分を殺しにかかってくるような苦しみから語れば、その対極にあるのが生きやすさなのかなと思うんですよ。

言葉にするのむずかしいな。

ACを少し克服してから、改めてそれについてのコンテンツを見ても、どれもがしっくりくるようで来ない感じがある。

 

また改めて言葉にしてみよう。

思ったことをつらつらと書いてみました。